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この世界には本当に「メタバース」が必要なのか:マシュー・マクファーレーン 氏

メタバースがものすごい勢いで流行する中「社会は本当にメタバースを望んでいるのか」と問う識者もいます。今回は、メタバースは少数の大手企業によってコントロールされている「寡頭政治」であり、大衆は企業や一部の権力者の利益のためにメタバースを押し売りされている、という主張について見ていきます。メタバースにはどのような問題があるのでしょうか。どうぞご覧ください。

本記事は、 マシュー・マクファーレーン 氏(Matthew McFarlane)の「No One Asked for the Metaverse」の内容を日本語へ翻訳し掲載したものです。原文の英語版はこちらをご覧ください。

社会は本当にタバースを望んでいるか

アトランティック誌の最新記事「The Metaverse is Bad(メタバースは悪い)」を執筆したイアン・ボゴスト氏(Ian Bogost)は「我々の社会は本当にメタバースを望んでいるのか」という疑問を世間に投げかけました。

ビジネス界やテクノロジー界における記事の大半はこの疑問に取り組むことを長らく避け続けてきました。

「社会は本当にメタバースを望んでいるのか」という問いかけが言わんとしていることは、メタバースには、たった一握りの影響力の強い大手企業の思惑や、テクノロジー愛好家たちのユートピア的な夢想世界の域を超えるような価値が果たしてあるのだろうかということです。

メタバースとは仮想現実のレイヤーのことですが、このレイヤーはやがて現実と一体になってしまう可能性もあります。メタバースという言葉自体、捉えて定義することは難儀です。

現在のデジタルライフをより没入型に拡張したに過ぎないという見方もあれば、人々の生活、仕事、遊び、消費、といったあらゆる機能を備えた完全な別世界であるという捉え方もあります。

メタバースが実際に何をもたらすかということは、時間が経ってみないとわかりません。しかしほぼ確実に言えるのは、メタバースはインターネットの再来のようなものではないということです。なぜならあまりにも多くの問題があるからです。

メタバースは寡頭政治?

メタバースという現実逃避手段の究極のプロバイダーになろうと各企業が競い合っていますが、競い合っている企業があまりにも少数で、そしてこれらの企業の資本があまりにも巨大であるというのがまず問題です。

テック業界の寡頭政治のプレイヤーたちは、データ、広告、そして権力に関してあまりにも抜け目がありません。したがって、これだけの機会を目の前にして徹底的な専制体制を敷かないというわけにはいかないのです。

中でもご存知の通りフェイスブックはメタバースをコントロールする計画をすでに公表しており、社名も「Meta」に変更しました。この出来事だけでも「ヘッドセットの向こうには一体何があるのだろうか」ということを考えるきっかけとして十分だと思います。


メタバースがどういったものになるのか捉えることができないのであれば、利用者にとってどのような利益があるのかを理解することもかなり難しいです。

しかし現在のところ、メタバースの用途は主にゲームとNFTを用いた投機が中心となっているようです。もちろんこれから新しく開発されていくアプリケーションも確かにあるとは思いますが、詳細ははっきりとしません。

また、工学、医学、教育といった分野への応用も宣伝されていますが、具体的にどのような利点があるのかについてはあまり説明されていないというのが現状です。

とにかく、全てが未来志向なのです。だからたとえばMetaのCEOのマーク・ザッカーバーグ氏などは、人々の生産性を当然あげてくれるであろう「無限オフィス(infinite office)」といったようなとんでもないアイデアを誇大宣伝し、追求からひらひらと逃れることができます。

テクノロジーに内在するバイアス

メタバースの「分散化」や「民主化」については、例によって高尚な議論が交わされるようになると思っています。ブロックチェーンも議論に絡んでくるでしょう。しかしこういった議論は結局堂々巡りとなると思います。

新しいテクノロジーの「分散化」や「民主化」のアイデアを信奉する人々はたいてい善意からです。しかしそのテクノロジーも結局はあまり利他的でない人々に占領されてしまうので、善意を持っていた人々はそんな運命をたどるテクノロジーを推進してしまったということになってしまいます。

テクノロジーの善意的な支持者らは「テクノロジーは中立であり良いことに使われる」と考えています。しかし彼らが見落としてしまっているのは、実際には中立的なテクノロジーなどなく「全てのテクノロジーが独自のバイアスを抱えている」という点です。

アメリカの批評家であるニール・ポストマン氏(Neil Postman)は「ハンマーを持った人間には、すべてが釘に見える」ということわざを思い出させてくれました。これはテクノロジーに内在するバイアスの問題をよく表している言葉だと思います。

つまり、ハンマーというテクノロジーの存在自体が、たとえば物を切ったりすることよりも、「叩かなければならない」という方向への強いバイアスを生み出しているのです。

テクノロジーは中立ではありません。このことについて、ポストマン氏やラングドン・ウィナー氏(Langdon Winner)のような思想家たちは、数十年前にはすでに警告をしていました。

ウィナー氏に言わせれば人々は皆「物質主義的・道具主義的な文化の領域で生みだされたあらゆるものが、必ず自由主義・民主主義・社会正義と相容れることができ、共存できる」という頑な信念を持っているので、警鐘を鳴らしてここに切り込もうとしたのです。

ボゴスト氏も、社会にとって好ましくないであろうテクノロジーも存在する、ということをよく理解しています。そんなボゴスト氏は「メタバースによってもたらされる仮想世界は使い物にならないだろう」と指摘します。

メタバースの存在意義を問う

ここでもう一度「メタバースに対する需要は本当にあるのか」という肝心の疑問に立ち返らなければなりません。つまり、世の人々は本当に、仮想現実のために現実世界の都合の方を多少なりとも放棄する心構えができているのでしょうか。

たしかに、ハイテク企業の幹部たちやベンチャーキャピタリストたち、それから目を輝かせて夢を追っている起業家たちなんかにとっては、大きな需要があると思います。

しかし、こういった特殊な人たちの願望や、彼らのことを取り上げるビジネス誌や技術誌に掲載されているような内容を、仮想世界に対する世間一般の意見だとして受け止めるべきではないでしょう。

実際、メタバースにまつわる誇大広告を調べれば調べるほど、ますますその空虚さが際立ってきます。

メタバースは、先ほど挙げたような一部の特殊な人たちの後押しと数々のプロパガンダにより、あたかも皆が乗りこまないといけない船であるかのように祭り上げられてしまったのです。しかしそこに一部の人々の思惑とプロパガンダ以外の中身はあるのでしょうか。

メタバースに関しては国家安全保障的な議論、たとえば開発における米中競争といったような議論ですが、これさえもなかなか想像しにくいと思います。 

仮に国家間の開発競争に勝ったところで得られる成果が、人々の現実世界からの離脱と仮想現実世界への長時間没入なのだとしたら、果たしてそれは勝つ意義のある競争なのでしょうか。「超オンライン」であるということのその先に、メタバースに関して何か知らなければならない事実があるのでしょうか。

一般市民はテクノロジーの発展に対して無力か 

「超オンライン」の先に果たして何が待ち受けているのかなどという疑問は、何にせよ意味のない問いかけである、というのが今日の一般的な見解だと思います。

これはたとえばネオ・ラッダイト運動家たち(ITやハイテク産業に雇用を奪われると懸念して開発阻止や利用控えを行おうとする人)やフットドラッガーたち(行動をわざと遅らせようとする人)にとってさえも意味のない疑問です。

なぜなら、技術がどんどん先へ発展していくのを懸念したところで、実際には何の意味もないからです。テクノロジーというのは我々が何をしようとも自ずと前進していくものであり、我々はテクノロジーが社会の中で生み出す変化に適応していくしかないのです。

ただし、テクノロジーを制限して利用したり様々な工夫をしながら展開したりということはもちろん可能ですし、テクノロジーの制限利用なんかは実際に世の中で幾度となく行われてたことです。

たとえば原子力発電ですが、アメリカが原子力発電でまかなっている電力というのは、総使用電力のわずか20%に過ぎません。また、アメリカ人は移動を圧倒的に車に頼っていますが、車に頼らず公共交通機関をもっと利用しているような国もあります。

他にも、たとえばフェイスブックは近ごろ世の中から不正行為を繰り返し行っていると叩かれたため、子供用インスタグラムのサービス開始を延期しました。

このように、我々は様々な道を選択することができます。ただ、歴史を振り返ってみた時にどうしても、物事が他の道をたどった場合というのを想像するのが困難なのです。そして我々が何か抗議したところで未来は何も変わらないだろう、と思ってしまうのです。

そしてこのような思考はある問題へとつながります。それは我々、つまり現代の一般市民の大多数は、新テクノロジーを導入するか否かという決定において、もはや大した発言力を持ち合わせていないらしいということです。

政府も制御できない私的権力の暴走

我々がずっと見て見ぬ振りを続けている重大事項の1つは、「政府」があまり統治をしなくなったということです。

これは非常に残念なことです。なぜなら国家というのは人々にとっての最後の砦であり、たとえば私的な機関が大きすぎる権力を蓄えたり、その権力で社会の意志を逸脱しようとしたりした場合に、軌道修正を行うことのできる唯一の救済手段だからです。

政治の一番の理想型は、我々1人1人が法の支配に則った統治を行ってくれる代表者に投票することのできるような仕組みです。しかし残念ながらアメリカの政情ではリバタリアン的(自由至上主義的)な風潮が強いため、政治家たちが私的権力の集中に対して果敢に行動を起こすというのは大変困難です。

作家のマット・ストーラー氏(Matt Stoller)なども繰り返し指摘しているように、たとえばフェイスブックのような会社がいくら不正を働いても、所属している役員たちはおろか、株価にすら何のマイナス影響もありません。このような事実こそまさに、政治家たちが統治する勇気を失っているということの動かぬ証拠です。

我々の社会が抱えているもう1つの問題は、今日の米国にはびこる深刻な格差や不平等と経済的権力の集中です。

もっと言ってしまえば、選挙で選ばれたわけでもなければ国民に対して何か責務を追っているわけでもない、たった一握りの人数からなる経営者のグループが、新しい技術の使い方に関する全ての決定権を独占しているということです。

ラングドン・ウィナー氏は、1970年代のトマト収穫機の発明について、自身の著書『クジラと原子炉ー技術の限界を求めて』の中で次のように述べています。

我々が目にしている社会発展というのは、科学知識・技術発明・企業利益に、政治的・経済的権力の明白な刻印が押され、深く根付いた様式で互いに補強し合っている現在進行中のプロセスです…トマト収穫機のような革新的技術に反対する人々が「反テクノロジー」あるいは「反発展」と見なされるのは、まさにこのような社会に巧妙に根付いた様式に直面しているからです。

今日の我々は、まさに本の中で描写されているような、社会に深く根を下ろしたお決まりの様式というものに直面しています。

ただ現代社会の様式というのは、より多くの富を蓄えた、より傲慢で偏狭な視点を持った、そして今まで壊してきたものは全てテクノロジーによって修復できると信じて止まないような、少数の個人によって煽り立てられているのです。

メタバースや仮想現実を推し進めたい人々 

もちろん、メタバースによって多大な利益を得ようとしている人たちは、前述のような指摘を一蹴しています。

ソフトウェア開発者で投資家のマーク・アンドリーセン氏(Mark Andreessen)は、仮想現実の世界に夢遊病的に足を踏み入れてもいいものだろうか、と懸念する人たちのことを「現実世界の特権階級」と揶揄し、人類の大半にとっては「“仮想”現実世界のほうが現実世界と比べて、物理的にも社会環境的にも計り知れないほど豊かで充実している」と主張します。

もしもこの主張に対して「仮想現実に身を投じて理想世界を願うくらいなら、その前に現実世界のほうを改善すべきなのではないか」などと尋ねると、16億ドルもの純資産を持つような人物にはきっと嘲笑されてしまうでしょう。それもそのはずです。なぜなら現実世界の改善にはお金がかかりますが、仮想世界の発展の方はお金が儲かるのです。

とはいえ、アンドリーセン氏の叙述について一旦文字通りの検証をしてみる価値はあるでしょう。彼の言葉は以下の通りです。

現実世界には、5000年間もの改善の猶予がありました。それなのにこの世界は、大多数の人々にとっては明らかにまだひどく不十分です。最終的に良くなるかを見届けるためにさらに5000年待つ必要はないだろうというのが私の意見です。それよりも、たとえどれだけ現実逃避をすることになったとしても、全ての人にとって人生、仕事、愛情が素晴らしいものとなるようなオンライン世界を構築すべきですし、我々は今実際にそれを構築をしている最中です。

私には、この思想がとても闇深くそして滑稽に思えます。寡頭政治の新しい指導者たちはどうして、バーチャル世界には現在の現実世界で起こっているような問題が何もないと思っているのでしょうか。あるいは、予想すらしていなかったような新しい問題が大量に出てくるだろうと、なぜ思わないのでしょうか。

彼らは「新しい世界はこれまでの世界みたいに悲惨なことにはならない。今度は我々がルールをつくるのだ。」と意気込んでいるようですが、それではこれまでの世界のルールを作ってすべての人々にとって台無しにしてしまったのは、一体どこの誰だったのでしょうか・・・。

現実世界と仮想世界の夢と現実

現実を「逃避」したあげくの果てに、我々は仮想現実を一体どのように使えばいいというのでしょうか。戦争で荒廃した地域に地下壕でもつくって、人々が仮想世界のバーチャルなごちそうを食べに行っている間、飢えきった体は安全な壕の中にでも閉じ込めておけと言うのでしょうか。

それともアンドリーセン氏はまさか、児童労働に従事させられている子どもたちが12時間労働の後でゲームを楽しめるようにと、何百万台ものVRヘッドセットを寄付するつもりなのでしょうか。そのような考え方でいくと、ホームレスの人たちはきっと素晴らしい人生に仕事に恋愛にと、オンラインの世界を大いに楽しめることでしょう。

苦しい生活を強いられている人々たちに現実を「逃避」させることで仕事や戦争や飢餓から解放し「計り知れないほど豊かで充実した世界」に参加させることができる、などという考えは実に馬鹿げています。

特に、それがアンドリーセン氏のような人々を想像を絶するほど豊かにしたシステムを支えることにもつながるというのであればなおさらです。もしも現実世界のヨット市場が崩壊でもしたら、その時は私もぜひメタバースの誇大広告を買いましょう。

メタバースの「押し売り」問題

真実はいつも同じで、彼らは例によって我々に何かを売り込もうとしているのです。彼らはお金のにおいを敏感に感じとり、文字通り「死ぬほど」楽しめるテクノロジーを、現実世界の貧しい人々にとっての魂の救済であるかのように見せようとしているのです。

ボゴスト氏はアトランティック誌に寄せた自身の記事の中で、「もしもメタバースが実現すれば究極の企業城下町となり、原材料、サプライチェーン、製造、流通、使用、といったあらゆるテーマをすべて1つのサービス傘下に統べるようなメガスケールのアマゾンが誕生するでしょう。まさに消費のブラックホールです。」と指摘しており、この通りだと思います。

アンドリーセン氏のような人たちは、メタバースの到来が必然的なものだと思われるのを望んでいて、あたかも人類がテクノロジーの発展とともに限りなく明るい未来へ向かっているかのように思わせたいのです。

しかし実際には、人々がテクノロジーに踏みつぶされる可能性の方が高く、その様子を少数の特権階級の人たちが高みの見物をしているという状況です。そして彼らは時々「この世界の方が現実世界のあらゆることよりもはるかに素晴らしく充実している」ということを忠告して思い出させてくれるのです。

ボゴスト氏はこのことを「自分たちの取れるものを取るだけとった後は振り返らずに前進する」という特徴から、「ストリップマイナー(露天採掘場の採掘人)あるいはプライベート・エクイティ・パートナーの論理」と読んでいます。

「ストリップマイナー」たちはすでに、現実世界における価値あるものを採掘するために大変ひどいことをしてきました。そして彼らが次にしようとしているのは、自分らが再び店をかまえて儲けられるように、新しく仮想世界を作るということです。

1986年にウィナー氏は世間に対して以下のように問いかけました。

「何かに取りかかろうとする時、我々はどのような世界をつくろうとしているのでしょうか。人類の自由、社会性、知性、創造性、自立性の成長の可能性を伸ばせるような世界の環境設計と構築をしようとしているのでしょうか。それとも、全く別の方向に向かってしまっているのでしょうか。」

テクノロジー界の重鎮たちは、自分たちの作っている世界は前者で、自由と創造性に満ちていると信じ込ませています。しかし実際には、まったく異なる方向へと発展し続けようとしていると思います。

翻訳: Nen Nishihara

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