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キリスト教信者の暗号通貨取引の是非をめぐる論争:VANESSA DIRWAI氏

キリスト教徒的には暗号通貨への投資は推奨されるのでしょうか。また、聖書の中にはトレーディングに関する記載はあるのでしょうか。今回は宗教的な観点から暗号通貨に切り込んでいきます。聖書を引用しつつ、キリスト教徒の立場から暗号通貨取引の是非について問う内容となっていますので、ぜひご覧ください。

本記事は、 Vanessa Dirwai氏の「Should Christinas trande Bitcoin and other Cryptocurrencies?」の内容を日本語へ翻訳し掲載したものです。原文の英語版はこちらをご覧ください。Vanessaさんの各種サイトもぜひご参照ください。

本記事中では、聖書からのことばの訳は以下から引用しています。 
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

キリスト教徒の暗号通貨取引の是非をめぐる信者間の意見対立

キリスト教徒の間では、トレーディングと信仰をめぐる論争が長らく続けられてきました。この論争においては、賛成と反対のどちらの立場からも強い主張が出てきています。またこの議論に暗号通貨が絡んでくると、両者の対立が一層顕著になります。

よっぽど特殊な境遇、たとえばずっと隠遁生活を送っていたとか苦難に備えて地下壕をほって過ごしていたとか、そういった類の事情でもない限りは、キリスト教徒の人もそうでない人も等しく暗号通貨に対する関心の高まりを確実に感じていると思います。

暗号通貨取引というのは数字を動かす仮想的な取引ではありますが、莫大な利益や損失を伴う行為です。このような取引に手を出すべきか否かというのはただ単に信仰の問題だけではなく、本記事の後半でも述べられるような数多の問題につながってくる可能性があります。

しかしここではまず、①キリスト教徒がBitcoinなどに投資する是非 ②暗号通貨取引は罪か の2点について考えていきたいと思います。

聖書に登場する「取引」

まずは紀元前32年頃のエリコ(Jericho)の町に思いを馳せてみましょう。ルカによる福音書の19章11〜27節には、10ミナ(ミナは旧約聖書時代の通貨の単位)のたとえ話が登場します。我々はここから、最も原始的な取引の実例を見ることができるというわけです。

ルカ19:15「さて、彼は王位を授かって帰ってくると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。」

聖書の文からも読みとれる通り、ここに出てくるしもべたちは主人に与えられたお金である種の裁定取引、つまり何かを安く買って高く売ることによる売買益で利益を得たと考えられます。実際に、もらったお金を単に土に埋めておいただけのしもべは、主人からもらったものを活用しなかったという理由で咎められ、裁かれることとなりました。

(聖書の続きには以下のように書いてあります。)

ルカ19:26(日本語訳ではルカ19:22-23)「主人はそのしもべに言った『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたと言うのか。それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』」

この10ミナのたとえ話から見るに、神は「不義からくる富」に関して、これに賢く対処する人に微笑みを向けるようです。そしてもう一つわかるのは、聖書の中にはたしかに裁定取引の原則についての描写があるということです。

ここで早くも、「では暗号通貨の原則も聖書の範疇ではないか」と言う声が聞こえてきますが、結論を急いではいけません。まずは暗号通貨という技術が一体どういうものなのか見ていきましょう。

暗号通貨を支えているブロックチェーンとは

すでにブロックチェーンについての基本的理解があるという方はこの部分は飛ばしていただいてもけっこうです。ここでは、これから理解しようとしている人に向けての簡単な説明を行っていきます。

ブロックチェーンを基本的な観点から捉えるとすれば、Bitcoin含む多くのデジタル通貨を支えている技術であり、それらのデジタル通貨の市場、つまり活動の場でもあるといったところです。

ブロックチェーンは2010年初め頃までは一般的になってはいませんでしたが、実は90年代の初め頃から存在する技術です。

とはいえ、この技術の最新の形とも言える「ブロックチェーン2.0」については起源が非常に曖昧で、やや伝説味を帯びているようなところさえあります。

最も成功をおさめた発明であるBitcoinの創始者の身元すらも確認がとれていないほどで、この事実だけでもこの技術に対して警戒が必要な理由としては十分なくらいです。

Bitcoinの元となったホワイトペーパーは、12年以上前に「サトシナカモト」を名乗る人物(または団体)によって発表されました。ホワイトペーパーの中で綴られていたのは、なんと銀行から権力を奪い、追跡不可能なデジタル売買手段を提供し、金融市場を分散化しようというアイデアでした。現行の当局にとっては事実上の権力剥奪を意味するものです。しかしこの話については、一旦このあたりでとどめておきましょう。

一口に暗号通貨と言っても、BitcoinやEthereumをはじめとして何千種類もあり、それぞれがユニークな機能や属性を持っています。そして十分なノウハウさえあれば、意外と誰でも簡単に暗号通貨を作ることができます。実際に、最近だと風刺的な存在として作られた「Jesuscoin(ジーザスコイン)」というコインがデジタル通貨になりました。

Bitcoinを含む暗号通貨が最近特に世間の注目を浴びるようになったのは、市場価値の急激な上昇があったからです。例えば、2015年時点のBitcoinの価値は215ポンドであると報告されていますが、2021年2月の時点では当時の史上最高値である4万ポンドまで上昇しました。そしてこのような上昇があると、バブル崩壊と市場価値の再評価の影がちらつくようになるのです。

今のところ、暗号通貨取引はしっかりと線引きをした上でわきまえるべきところをわきまえて行っている限りは、かなり有利であるように思えます。しかし、実は深く入り込めば入り込むほど、不吉な影響がつきまとうようになってくるのです。

というわけで、次の部分では暗号通貨取引の危険な罠や落とし穴について説明していきます。

トレーディングは「ギャンブル」なのか

この部分ではもしかすると内容を不快に感じる方もいらっしゃるかもしれませんので先に書いておきますが、ここに書かれていることは読者の方々の暗号通貨に対する支持や気持ちを攻撃する目的ではなく、あくまでも暗号通貨に関する聖書的な観点からの議論になりますので、あらかじめご了承ください。

人はよく極端な道を行ったり、行き過ぎた行動をとってしまうという傾向があります。そしていったん行き過ぎた行動をとってしまうと、とたんに物事の境界線が曖昧になってしまいます。

現に世の中には、お金を儲けて経済的な安定を手に入れようとするために、信仰を捨ててしまう人が多くいます。神から離れて自分自身に流されてしまう人たちを、我々は数えきれないほど見てきました。

暗号通貨はそもそも取引のペースが速いので、自分の資産を守るためには常に市場の動きに精通していなければなりません。このような性質がある以上、キリスト教徒としては己と暗号通貨との関わりを抑制しない限り、宗教的な歩みの方に悪影響を及ぼす可能性があるのです。

また、「オッドロット理論」と呼ばれる取引に関する興味深い法則もあります。これは、一般的な個人投資家(小規模投資家)は常に間違っている、という考え方を前提とする理論です。もっとわかりやすくいうと、たとえば一般の個人投資家たちがある銘柄を買うようになれば、その銘柄はこれから悪くなっていく、という考え方になります。

つまりオッドロット理論によると、最後に市場に参入してくる人たちはたいてい一番悲惨な目に遭う人だということになります。常識的な知識に基づいて取引を行う小口投資家たちは市場への参入が一番最後になるため、痛い目をみてパニックに陥って売ることになり、価格を下げてしまうというサイクルが続いていくということです。

この部分ではいろいろと論じてきましたが、決してみなさまのモチベーションを削ぐために書いているわけではないということを最後に言わせてください。ここではあくまでも、デジタル取引の世界に没頭する危険性について警告するために書いています。

暗号通貨をエサとした悪徳商法

新しく富を生み出す機会のあるところには常に、その機会を利用してやろうと目論んでいる日和見主義者がいます。

「クリプトクイーン」の名でも知られているルジャ・イグナトバ博士(Ruja Ignatova)は、黎明期の暗号通貨の1つで当時4億ポンドもの評価額があった「Onecoin」というコインの顔役でした。しかしその後悲しいことに、2017年の末、彼女はコインの正式ローンチに先立って姿を消してしまいました。フォロワーたちの投資とともに行方をくらましてしまった彼女は、その後2度と姿を現しませんでした。

暗号通貨が一部のキリスト教徒たちに繁栄の機会をもたらしたのは確かで、これは紛れもない事実です。しかし悪魔はいつも、困難な状況にある人々に金銭的利益をちらつかせて誘惑します。だからこそ、自分が「経済的に困窮しているか」そして「暗号通貨に魅力を感じるのは経済困窮が理由か」の2点についてはよくよく考える必要があります。

暗号通貨はあまり規制されていないため、残念ながら補償や経済的保護を受けることができず、より多くの損失を被ってしまう可能性があるというのが現実だからです。

神の財産を管理する義務 vs 暗号通貨をとりまく恐怖と欲望

旧約聖書の「詩篇」の中には以下のように書いてあります。

詩篇50:10「森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも」

神は千の丘の家畜を所有する万物の創造主であり、人間の財産も最終的にはすべて神に属しています。つまり人間は、神のお金を管理する者としてお金を浪費しないようにする義務があるということです。

ルカ伝の19章とマタイ伝25章では、神が誰であるかを知ることと己の欲に打ち勝つことが中心的な教えとして書かれています。ルカ伝の19章に登場する「しもべ」が、自分のものではないお金を埋めて隠したのは、主人に対する不信と私欲が原因でした。

暗号通貨の価値は株式等と同様に市場の狂乱によって左右されます。現代の取引は大変残念なことに、暗号通貨ラッシュを求める人々の欲望と不信感を中心に構成されてしまっています。

思い出してください。聖書のたとえ話に出てきた悪いしもべも、主人をおそれ不信感を抱き、あずかったお金を貪欲に独り占めし土の中に埋めました。

驚くべきことに、暗号通貨には「恐怖と欲のインデックス」(Crypto Fear and Greed index)と呼ばれる指標まであるのです。

無から有を得ようとする心というのは我々の肉体に染みついている本能です。創世記に登場するアダムの罰の中には、汗をかいて地を耕さなければならないというものがありました。しかし人類はずっとこの不可避の罰から逃れ続けようとしてきました。

現実には、リターンを得るためにはそれに見合うだけのハードワークが必要です。簡単に得られるものは、失うのも一瞬です。だからこそ暗号通貨には恐怖がつきまとうのです。

しかしそれでも、暗号通貨によって利益を蓄積する現実的な見通しを持っていてそれについて確信を寄せているという人に向けてのアドバイスが3つあります。

まず1つ目は、暗号通貨取引業界を駆り立てる欲や恐怖に屈しないよう、絶えず敬虔な視点を求めて祈り続けることです。2つ目は、自分で研究するのを怠らず投機の波やFOMOのために飛び込もうとしないことです。そして最後3つ目は、失う覚悟のできている以上のものはつぎ込まないことです。

箴言20:21「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない」

聖書中の預言とBitcoinの未来について

聖書からは、我々の通貨は最終的に1つの世界通貨に収束していく方向に向かっているということを知ることができます。

そういった意味では、ブロックチェーンはたしかに、未来の出来事の中でも大きな部分を占める存在であるように思えます。

新約聖書の「黙示録」の中には、かの悪名高い「獣の刻印」を執行する「第2の獣」の行動にまつわる預言の描写があります。

黙示録13:16-18「また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、ある獣の名、またはその名が表す数字である。」

(このような描写を根拠に)聖書学者たちは長らく、身分証明書と世界共通通貨が必須である決済システムが全世界で展開される可能性を受け入れてきました。

今あるブロックチェーンの発明に関与した人物については「サトシナカモト」という名称以外何も明らかになっていませんが、この謎の存在がBitcoinの発行上限2100万BTCのうちのおよそ100万BTCを所有しているということがわかっています。

この地球上でブロックチェーンに対して最も影響力を持っているのは、最も多くのコインを保有している存在なのではないでしょうか。

たとえばこの影響力を持った単一の存在が自分の保有分を一度に売るようなことをすれば​​Bitcoinの大暴落を引き起こすことが可能で、ひいては暗号通貨市場全体を不安定にしてしまう可能性もあります。 また、Bitcoinの希少性が上がれば上がるほど、サトシの影響力も上がります。

昔ある知識人が、以下のような言葉を残しました。

「絶対的な権力は絶対的に腐敗する。」(ジョン・ダルバーグ=アクトン、1887年)

今の時代、この言葉はかつてないほどに適切な表現になったと思います。

キリスト教徒としては、デジタル通貨は常に少人数の人たちのなすがままであるということを頭に入れておきたいところです。この人たちは身元が隠されている人々で、彼らの道徳心を推し量ることはできないのです。

結論:暗号通貨に関するキリスト教的な視点

「失ってもいいと思えるものだけをつぎ込むべし」というトレーディングの基本原則は不変であり、これに関しては異論ありません。

問題は、暗号通貨が世俗的な権力者のなすがままであることに加えて我々自身の欠点や時代の精神も相まって暗号通貨の野心的なトレーディングが正当化され、善い心を維持することが難しいという点です。

誇大広告には眉をひそめ、歩みを慎重にしなければなりません。

エペソ人への手紙5:15 「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」

とはいえ、暗号通貨にはプラス面もあります。たとえば、暗号通貨は時間をかけて富を蓄積できる、またとない貴重な機会だと思います。

無闇な投資や無知な投資はおすすめできませんが、投資をしたい場合は、投資に先立って余剰資金の範囲内の額(つまり最悪失ってもいい額)で投資シミュレーションを行うことをおすすめします。投資シミュレーションができるツールがいろいろとあるのでそれらを活用するといいでしょう。

しかしいったんこの「ゲーム」に足を踏み入れると、投機と市場操作に支配されてしまうため注意が必要です。多くの人は自分の投資が心配で眠れない夜を過ごし、本来であれば神に祈るのに心を費やすべきところを、イーロン・マスクのツイートに心を奪われてしまっています。

キリスト教徒としてのアプローチの鍵は、我々が管理責任をもつお金を「尊い収益」として扱うことです。

暗号通貨は動きが非常に不安定なデジタル通貨で、誰かが説明責任を負っている訳でもなく、投資額のすべてとはいかないまでも、かなり大きな額を失ってしまう可能性が常についてまわります。お金をこのような資産に使うのは、果たして管理責任を全うしていると言えるのでしょうか。

これは多くの現象に共通して言えることですが、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」的な金融の先見性と愚かな衰退は紙一重なので、不義的な金儲けには要注意です。​​

高リスク株への投資については、どちらかといえば「すべきでない」という立場に傾いています。しかしキリスト教徒的には、暗号通貨取引にしても伝統的な資産の取引にしても、いかなるトレーディングも救済に対する考え方や宗派の戦場となってはいけないと思います。

これまでに論じてきた通り、賢明な投資については推奨されますが、貪欲さや不信感にまみれた心で、中毒性から投資するようなことは慎むべきです。

また、時代の精神(時代の支配的風潮)と、このテクノロジーが我々を最終的にどこに導いているのかということも考えなければいけません。

暗号通貨を完全に悪だと見なすわけではありませんが、このシステムに飲み込まれてしまわないように注意していかなければいけません。

最後はテモテへの手紙第一に書かれている聖句で締め括りたいと思います。

テモテへの手紙 第一6:9-11「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。」

翻訳: Nen Nishihara

免責事項】

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