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スリランカ経済危機と国内の富裕層:Indrajit Samarajiva氏

昨今はスリランカの経済崩壊が国際ニュースで騒がれていますが、国内の実情はどうなっているのでしょうか。メディアでは燃料を求める連日の長蛇の列や街頭での抗議活動が取り沙汰されていますが、今回の記事は一連の混乱を富裕層の人の視点から語るユニークな記事となっています。

国の経済危機の中富裕層の人々は高みの見物をしているのでしょうか、それとも同じように苦しんでいるのでしょうか。トルストイはじめさまざまな著作家の引用、新大統領に関する見解、現在の状況につながるスリランカの植民地支配の歴史的な背景・考察にも触れていますのでぜひご覧ください。

本記事は、 Indrajit Samarajiva氏の「How The Rich Are Doing In Sri Lanka’s Collapse」の内容を日本語へ翻訳し掲載したものです。原文の英語版はこちらをご覧ください。

経済危機から新大統領就任まで

スリランカの中でいうとうちは裕福な世帯です。今から書くことは正直言って恥ずかしい内容も含まれますし礼儀正しい社会の中では語られないようなこともありますが、今のように多くの人々がひどく苦しんでいる時にお金持ちの人はどうしているのかということを書くべく筆をとった次第です。

スリランカの経済崩壊は全国民を襲いました。苦しみは完全に平等というわけにはなかなかいきませんが、少なくとも一時的にはすべての人に共有はされました。誰もが停電に見舞われ、お金を失い、燃料や食料の調達に苦労しました。

私の世帯ではほとんどのお金を定期預金にしていましたが、インフレと為替レートの影響でおそらく5割近くは消えてしまったかと思います。我々も他の人とまったく同じように停電を経験し、行列に並び、抗議し、汗水を垂らしました。

それからは、選挙で選ばれたわけでもないラニル・ウィクラマシンハ氏が大統領の座につき、Dhammika Perera氏をはじめ、これまた選挙で選ばれたわけでもない億万長者が国会議員となりました。こうしてこの国は外国勢力に支えられたほぼ純粋な寡頭制となったのです。

富裕層の特権の復活と特権の裏付け

その後富裕層の人々にとっての状況はよくなりはじめましたが、それ以外の人々にとって状況はますます悪化していきました。

ウィクラマシンハ氏は事態を安定させ富裕層の特権を再編成し、その特権をもう一度強化するための時間を稼いでくれました。彼の大統領任命は、抗議運動の勢いを削ぎ、政府に大勢の抗議者を一斉検挙するための口実を与えたという意義がありました。そして現在、国はいたるところに軍を配備して常に人々を逮捕している状況です。


そして一度は壊滅的な打撃を受けた貯金も金利の上昇によって再び息を吹き返しました。(バランスシートの対応関係を考えると、代わりに貧しい人々はローンの返済ができなくなったということです。)

状況がいくらか安定したことで、国は160万個のバッテリーバックアップを購入することができました。おかげで停電も解消され、人々はもう燃料待ちの行列を避けるために電気自動車や自転車(自転車の価格はなんと2倍に上昇しました)に頼らなくてよくなりました。

もしも何らかの方法で米ドルを稼いでいた場合、私自身もそうなのですが、その場合は、今回の経済崩壊で実際には収入が増えています。ところがその増えたお金はスリランカに還元されることはありません。なぜなら我々は輸出産業に従事している大企業と同じように外貨で資金を保有しているからです。

こういった外貨を保有する企業というのは、すでに請求をめぐる間違いや価格の転嫁等を通して為替危機を引き起こしてきました。それが今ではより一層お金を国に落とさなくなったどころか、持っている資金を使って外国に工場を建てているという始末です。

エリートといわれる富裕層の人たちは自分たち以外が犠牲を支払うことを望んでいます。つまりは公務員の解雇、燃料補助金のカット、それから自由変動物価への移行(すなわちあらゆるものの高騰)を支持しているのです。

支持されているのは富裕層に影響のない政策です。富裕層の人は公務員でもなければ燃料で生計をたてているわけでもありません。また、支出の大部分を食費が占めているということもありません。

富裕層の人々がIMFによる植民地的な「国の建て直し」を支持しているのは、自分らが新しいコンプラドル(外国の資本家に従属し、自国内の商取引を請け負う商人のこと)階級だからです。つまり自分たちだけ快適な場所にいて、他人の犠牲を気楽に要求できる立ち位置にいるということです。

富裕層はこれらを「単なる経済学の原理」であると正当化しようとしていますが、実はそうではなく、すべては選択なのです。

トルストイも、以下のような言葉をのこしています。

人は何か悪い行いをすると必ず、その悪い行為は自分ではどうしようもない変えることのできない法則によってもたらされた結果であって悪い行為ではないのだということを説明する人生哲学を発明する。この事実は人が素晴らしく盲目であるということを証明している。

そしてこのような人生観は、人間の理解の及ばないかつ変更できない神の意志が存在していて、ある人にはつつましい地位と勤勉さ、また別の人には高い地位と良い人生をあらかじめ定めていた、という理論によく現れていた。

やがて時が経つと、今度は新しい説明が必要になった。そして満を持して生み出された新しい説明というのはある種の科学の形をとっていて、より具体的にいうと政治経済学だった。政治経済学は、労働の分担と労働生産物の分配を取り決める法則の発見を宣言した。

(トルストイ「現代の奴隷制度(The Slavery Of Our Times)」より)

市場は勝者のためのもの

先ほどすべては選択だといいました。というのも人民政府、あるいはもっと理想的には貧民のための独裁政府のような政府であれば、問題のツケを金持ちに払わせることができるはずだからです。

たとえば、燃料をひたすら金持ちの車に使わせる代わりに国民の9割が使う公共交通機関やバイクやタクシーに配給できたはずですし、高所得者向け住宅のエネルギー税を大幅に引き上げて実質的に金持ちの人に対して課税することもできたはずです。

あるいは大規模な公共事業を行い、飢えている人々に食料を供給するための栽培事業やコミュニティーの公共食堂運営事業に人を雇用することもできたでしょう。

ところが現実はそうならず、実際に貧しい人々に向けていわれたのは金利で利益を得なさい、市場のなりゆきに任せておきなさい、ということでした。しかしこれらは貧しい人にとってはまったく意味をなさないものです。

ここでいわれている「市場」は、お金持ちの人々の投資や財産しか指していません。そして「自由市場」というのは、お金を払ってそこで遊べる人々のためのものです。つまりは勝者のためのものなのです。

ほとんどのスリランカ人にとって事態が悪化している中でも勝者はいます。富裕層の人々にとっては事態はもう安定していて、利益を生み出せる状況にさえなりつつあります。私は茶番劇と呼びますがこれは本当は悲劇で、実際に飢えている人々がいるのです。

異色の植民地支配モデルの形成と現状の関連

植民地時代、スリランカの富裕層たちは国を植民地支配者たちに売り渡しました。

経済学者のDhanusha Gihan Pathirana氏は「スリランカの植民地支配モデルは、国内のエリート企業と開発途上の経済全般のしわざで自国経済の植民地化にいたったという、まったく異色のメカニズムを通じて生み出された」と述べています。スリランカが現状に陥ってしまったのもこの言葉の正しさを証明していると言えるでしょう。

このような植民地支配モデルの形成に携わった人たちは、自分らが引き起こした危機の対処に乗じて選挙で選ばれていない人々を投入する機会を得て、国を外国資本に従順な完全な寡頭政治国家に変えてしまいました。

こうしてスリランカはプランテーション時代に逆戻りし、ごく少数の特権階級が昔でいうところの白人の農夫さながらに快適に暮らすようになったのです。

民衆による抗議活動といずれやってくる富裕層にとっての精算の時

特権階級の人々が快適な暮らしを楽しむ一方、街頭では人々が制度の改正を求め、225人の国会議員を全員辞めさせることを訴えました。ところが実際に行われたのは議会の改造と制度の再編成だけで、改正どころか結局はもっと悪い結果となってしまいました。

元首相のマヒンダ・ラジャパクサ氏が抗議者を暴力的に追い出そうと試みたことに対する報復として家を燃やされた政治家もいました。これを受けてエリートたちは怖くなり、次は自分たちがターゲットにされるのではないかと懸念したので統一戦線を組みました。

その後はもうご存知の通りです。政府は銃で守りを固めデモ隊を率いた者は投獄されましたが、金持ちの人は安全なところで高みの見物を決めこんでいます。たとえこの人たちの家で停電になったとしてもバッテリーが作動し、長い行列には使用人が代わりに並び、どんな惨状もニュースで見るだけで自分で経験しなくてすみます。

しかし実際にお金をもっている立場から言わせてもらうと、今のような状況で生きるのは生き恥をさらすよりもひどい気持ちです。罪悪感を感じるほどです。なぜなら自分らがいい思いをしているのに国が負けているからです。そして国がよくならないのはまさに自分たちがいい思いをしているせいだと思うからです。

唯一希望があるとすれば、金持ちの人はいずれ報いをうけるということで(私のような人にとってはたしかに怖いことではありますが)、それは遅らせることはできても避けることはできないということです。

というのも、今再び緊張が高まってきているからです。根本的な問題は何一つ解決されていません。人々は子どもに食べ物をあげることも学校に通わせることもままならない生活をしているので、いずれどこかにしわよせがくるでしょう。

スリランカのウィクラマシンハ大統領と旧ドイツのヒンデンブルク大統領

人々による抗議活動には「希望」の瞬間がありました。人々は本当の意味での制度改革を求め、議会という枠組みを超えた権力を求め、イギリスの植民地時代に形成された民主主義の根本的なあり方に対する変革を求めました。しかしこうした要求も金持ちの人たちの利害のためにむなしく解散させられてしまいました。

この状況は、1925年の5月25日にドイツが崩壊して事態がさらに悪化しつつあった際に著作家のハリー・ケスラーがいった言葉を彷彿とさせます。

ケスラーは、「フィリスチン(反知性主義者)たちは皆ヒンデンブルクを歓迎している。」といいましたが、私はウィクラマシンハ氏についても同じことが言えると思います。ウィクラマシンハ氏はセイロンの古い封建的な一族の子孫です。

ヒンデンブルクをウィクラマシンハに置き換えて、ケスラーの言葉の続きにあてはめてみると、以下のようになります。

「彼(ウィクラマシンハ氏)はフェリスティニズムへの回帰を望んでいるすべての人々、お金を稼ぐこととそれを敬虔な心構えで消費することだけがすべてだった輝かしい時代への回帰を切望するすべての人々にとっての神である。栄光時代への回帰を望む人々は、彼(ウィクラマシンハ氏)が条件を『強化』するのを待っている。強化とはつまり、フィリスチンの基準に合わせることである。進歩に、そして人類の戦争の罪滅ぼしの金となるはずだった新しい世界のビジョンに別れを告げることである。」

ケスラーの言葉が時を越えて現代のスリランカの苦境に響いてくるのは何とも不思議な感じです。唯一の希望はスリランカの現状がどうか一時的なものであってほしいということです。一番恐ろしいのは、状況が今よりもさらに悪化するかもしれないということです。

ケスラーもいっているように「肉屋がやってきてとり前を要求するその日がくるまでは、もう一度だけ、腹に詰め物をされた羊やガチョウのようにぬくぬくと過ごすことができる」ということです。

羊やガチョウにどんな運命が最終的に待ち受けているかは誰でも知っています。マトンとフォアグラになるのです。金持ちも同じです。現状は国の崩壊局面でもうまくやってはいますが、いずれそうはいかなくなります。

最後にこんなことをいうのは悲しいですが、金持ちの人たちが税金や慈善事業で寄付をしようが、不公平感を払拭することはかないません。シェイクスピアのマクベス夫人の言葉を借りてしめくくれば、「まだ血の臭いがする。アラビアの香水(アラブの油)でもこの小さな手の臭いは取れはしまい。」のです。

翻訳: Nen Nishihara

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