経済学者たちの中には「犯罪に使われているから」とか「エネルギーの浪費だから」といった理由でBitcoinを毛嫌いしている人が多いということは前回の記事で触れました。しかしこれらの理由は、経済学的観点からの懸念とは言い難いということについても述べました。
今回の記事では経済学的観点からのBitcoinをめぐる懸念に迫ります。経済学的な視点で見た場合、Bitcoinのどこが一番問題なのでしょうか。議論するためには、人は完全に合理的な存在ではないという点や、暗号通貨の先発者であるBitcoinへの期待はある程度ロックインされているとはどういうことか、等の点について考察していく必要があります。示唆に富んだ内容となっておりますので、ぜひご覧ください。
本記事は、 トロント大学ロットマンスクールオブマネジメントのInnovation & Entrepreneurshipの学部長を務める経済学者、ジョシュア・ガンズ氏(Joshua Gans)の「Why Economists Don’t Like Bitcoin (Part II)」の内容を日本語へ翻訳し掲載したものです。原文の英語版はこちらをご覧ください。
はじめに
以前の記事の中では、経済学者たちがBitcoinを好まない理由についての考察をまとめました。その記事を出させていただいてから約1週間の時がたちましたが、どうやらBitcoinを嫌う経済学者たちの意見に賛同している人々は多くいるとみていいようです。
しかし、記事の中でも論じてきたように、経済学者たちがBitcoinを好まない理由としてあげられた数々の論点は、彼らの普段の物の見方とは矛盾しているようなものばかりでした。
前記事の結論のおさらいも兼ねて簡単に整理しますと、まず、経済学者たちが主張している「Bitcoinは違法な支払いを促進している」という点は決して明らかな事実ではないという点に触れました。
また、Bitcoinのもつ性質はお金と非常に近いという点についても記事の中で説明しました。
最後に、「Bitcoinは資源の浪費である」という主張に関しては、経済学者たちは通常「市場の失敗があるかどうか」という観点から浪費であるかを判断するにもかかわらず、Bitcoinにおいては「市場の失敗」があるのかどうか定かではないということをあげました。
ただ筆者としてはBitcoinに対して懸念がないわけではなく、より論理的な経済学的観点の懸念がたしかにあると考えています。
しかしこの懸念について論じるためには、完全競争市場という通常の市場概念の枠組みを超えて、経済学者たちが普段注目していないような「不合理行動」と行った要素に着目しなければなりません。また、市場支配力という経済学者たちが普段大いに気にしている要素にも注目する必要があります。
そこで今回の考察を進めていくにあたって、Bitcoinの提供する経済的役割について考えるためにBitcoinの捉え方を2つにわけて分析をしていきたいと思います。
一方の分析では、Bitcoinを価値の貯蔵機能をもつもの、いわばデジタル・ゴールドとして捉えます。もう一方の分析では、Bitcoinをギャンブルのようなもの、つまり純粋にゲームとして捉えます。
筆者のこのアプローチは、暗号通貨の愛好家たちには好まれないでしょう。現実的にはこの2つの側面は切り離されておらず、混在しているのです。しかしこの2つを理論的に切り離して分析するというのが私の目的に沿っているため、今回はそうさせていただきます。
筆者からのお断りは以上となりますので、これよりさっそく反感を買うであろう議論の方を始めていきたいと思います。
Bitcoinはゲームであるという考え方
経済学者のノア・スミス氏(Noah Smith)はBitcoinの潜在的な用途について考察し、4種類の潜在的利用法について理論を展開しました。しかし彼はなぜか、純粋なギャンブルゲームとしての利用法については考慮しませんでした。ゲームも正統な経済活動の範疇なので、ここを落としたのは奇妙です。
Bitcoinをゲームとして捉えるためには、決済手段であるとか一般的な金融資産であるとか、そういったBitcoinをとりまく普通の描写からは一旦離れる必要があります。
実は我々が一般的な金融資産だと思っているものの多くも、非常にゲーム的な方法で市場取引されています。したがって、ゲーム要素というのは別に暗号通貨固有の特徴ではありません。
暗号通貨がゲームとして語られないのは、あまりにも多くの人々は他の様々な可能性に目が眩んでしまい、より明白な特徴から遠ざかってしまっているからです。
ここでいうゲームというのは非常に単純な性質のもので、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論(一般理論)』の中で初めて登場した概念です。ここで1936年代の感受性を持ち込むことをお許し願いたいのですが、ケインズが一般的な「新聞ゲーム」をどのように説明したかを紹介します。
…100枚の写真の中から最も美しいと思う顔を6人選ぶチャレンジにおいて、このチャレンジに参加している参加者全体の平均的な好みに最も近い選択をした人に賞品が与えられるというルールを想定する。この場合、各参加者は自分自身が最も美しいと思う顔を選ぶのではなく、同じチャレンジに参加している他の参加者の視点を考慮して顔を選ばなくてはならない。…我々は、平均的な意見を予測するのに知性を使うという第三の段階に達しているのです。そしてこの段階よりも上の第四、第五段階、あるいはさらに上の段階にいる人もきっと存在していると思います。
ケインズは、この理論が株式市場をよく表しているということに気がつきました。株式市場では、他の投資家が魅力的だと思うであろう銘柄を正しく予想することができればより多くの利益を得ることができます。
我々がよく「ファンダメンタルズ」と称しているのも、この予測の方法や計算の一部ですが、これも実は単なる物語に過ぎないのかもしれません。もしかすると、GameStopのようなものすごく古い株が、あるとき急に魅力的な銘柄となって目の前に現れる可能性だってあるわけです。
「ファンダメンタルズ」つまり基礎的な要素が少なくなればなるほど、その性質は純粋なギャンブルゲームに近づきます。ある一定の決まった条件の中で推測を行うのとは違い、タイミング重視のゲームとなってくるからです。より批判的な表現をすると、いわゆるチキンゲームになってくるのです。
ゲームで勝つためには
ゲームという枠組みの中では、他人の動きを予測してBitcoinに投資を続けるということが行われています。そしてその結果、ゲームのプレイヤーたちの期待するように価格が上昇するというわけです。
しかしプレイヤーたちはこのようなプロセスが永遠に続くものではないということも知っています。このゲームで「勝つ」ためには、ちょうどいいタイミングで売る必要があります。
早く売る人はたくさんいます。価格が上がり続けていくためには結局のところこういう人たちの存在も必要です。早く売る人がいる一方で、遅く売る人もたくさんいます。しかしゲームに勝つためにはピークで売りたいのです。
だからこそ毎日毎日「今日がその日なのか」という計算をするのです。皆今がそのタイミングかを知るために相場を(実際にはDiscordやRedditで他のプレイヤーたちの動向を)読むのです。
このような取引には常に熱狂的な気持ちが渦巻いていて、この熱意のようなものは、たとえ状況が多少悪化したとしても残り続けます。結局のところ、自分が長く保有しすぎているなと思う場合は、他の人にも事態が好転すると納得させたいものなのです。
ゲームは経済活動
ゲームはれっきとした経済活動です。電子ゲーム(ここでいう「電子ゲーム」は暗号通貨を含まない)に支払われているお金は年間500億ドルを超えており、さらに増え続けています。カジノでの賭博に使われているお金は、アメリカ国内だけで年間400億ドルを超えます。
この金額はBitcoinの市場価値と比較する微々たるもののように思えるかもしれません。しかし比較すべきは市場価値ではなく、どれだけのドルがBitcoinと交換されているのかということです。この観点から考えると両者はいい勝負をしていると言えるでしょう。
Bitcoinの将来を嘆くのは、セカンドライフについて嘆くのと少し似ています。皆が皆楽しめるものではなく、また我々に決定権があるものでもないのです。
ここで興味深いのは、Bitcoinをはじめとする暗号資産をめぐるゲームにはDeFiやNFT等の独自のアドオンがあるという点です。
たとえばDeFiはより複雑な取引戦略を可能にしますし、さまざまなリスクに対するヘッジとしても機能できます。NFTも分派資産への投機を可能にします。
要するにそれぞれのアドオンもまた独立したゲームなのです。暗号通貨をめぐるゲームはこのように戦略の幅が広がることで複雑さが増し、潜在的な楽しみも増すと推測されます。
「悪い」ゲームなのか
ゲームとしての暗号通貨に関して、これは「悪い」ゲームなのではないのか、と懸念する声もあります。たとえば、何もBitcoinのようにゲームを消費するようなゲームでなくとも同じように楽しめるゲームはある、と主張する人もいるかもしれません。
これはたしかに事実かもしれません。しかしそれでも、そもそもBitcoinが成り立つためには規制のないグローバルなゲームである必要があります。そしてこの条件に到達するためにはプルーフ・オブ・ワークが不可欠です。
そしてさらに言えば、もしももっと良いゲームがあるのであれば、いずれ誰かが作り出しますしそれを止めることはできません。(もちろん、言葉で言うのは実際にやるより簡単なので、この後でも論じていきますが実際に作ろうと思ったらそれほど簡単ではありません。)
ギャンブルと規制
ゲームとしての暗号通貨を考える上でより重要となってくるのは、ギャンブルゲームであるという点です。ギャンブルというのはカジノでも金融市場でも規制されています。
ギャンブルが規制されているのはまさに、人々がギャンブル行為を「ゲーム」ではなく「投資」であると思い込んでしまうからです。ギャンブルを「投資」だと思っている人々は、自分たちが関わっているものが実はゼロサムゲームであるということに気づくことができません。
経済学者は人を合理的判断に基づいた行動をとる主体だと想定しますが、実はそうでないとなれば、人々を自分自身の行動から守るためにもギャンブルは規制される必要があります。
人々が貯蓄を失わないようにするためにも、中毒的な行動を助長しないようにするためにもギャンブル行為の規制は必須です。また、人々が不正な請求に陥らないように守る必要もあります。以前もどこかで指摘しましたが、Bitcoinのゲームの中には不正な請求が多く、下手するとそういった不正請求がゲーム全体にはびこっているといっても過言ではないかもしれません。
だからこそ、自分がそのような性質のゲームに参加しているという自覚を持ち、ルールを理解するということが非常に重要です。
ここまでの話のまとめとして言えるのは、経済学者がBitcoinを好ましく思っていない理由の1つは、人が完全なる合理的な存在でない場合、問題が発生する可能性があるからだということです。
この問題をどう扱っていけばいいのかというのはまた別の問題になってくるのですが、少なくとも現段階で、Bitcoinに対する懸念の根拠としてこの問題があるということは言えます。
Bitcoinはデジタルゴールドであるという考え方
次は、Bitcoinは価値の貯蔵手段である、つまり価値保存の機能をもつ金融資産であるという考え方についてみていきましょう。これは、Bitcoinをゴールドの(あるいは一般的にゴールドの概念を有するものの)デジタル版だと捉える、もう1つの極端な考え方です。
1つだけお断りしておくと、ここで議論したいのはBitcoin、あるいは本物のゴールドが価値の貯蔵手段として優れているかどうかとかインフレに対するヘッジとして効果的かどうかということではありません。
ただ他の識者たちの見解だけ紹介しておくと、たとえばノア・スミス氏は懐疑的な立場をとっています。一方ヴィタリック・ブテリン氏は、広義的には価値の貯蔵手段としての役割を果たすことができるのではないか、という見方をしています。
私の論の切り口としては、Bitcoinは価値の貯蔵手段として機能するという前提で、ではそこからどのような経済的問題が派生してくるのか評価していくというものになります。
価値の保存機能について考える2つのアプローチ
まず、価値の保存機能には2つの考え方のアプローチがあります。1つは、使用という観点から考えるアプローチです。
たとえばある人が一生分のトイレットペーパーを買いだめしようとする場合(※もしもの話です)、それはその人がトイレットペーパーの生涯消費量を計算して予想した結果、少しずつ買うよりも今のうちにすべてまとめて買ってしまった方が得である、という判断をしたためだと考えることができます。
ここで重要なのは、買い続けるよりも貯めておく方が価値が高い、潜在的な利用価値を得られる、ということが判断基準となっているという点です。
もうひとつのアプローチは、交換という観点から考える方法です。ここでもトイレットペーパーを例にして考えるのは可能なのですが、よりわかりやすい例としてゴールドをとりあげてみましょう。
ゴールドにはもちろんゴールドそのものとしての用途もあるのですが、将来必要なものを買うのに使えると期待されているため、価値の貯蔵ができるということになります。将来必要なものを買うのに使えるということはつまり、交換価値があるということです。
普通、あるモノが交換価値を持つということは、それに何かしらの実用性がある必要があると考えるかもしれません。(たとえばトイレットペーパーのように、役に立つ必要がある。)
ところがゴールドは、交換価値があると考える人がたくさんいるため、どんなものとも交換できる、どんなものに対しても交換価値を持つことができるという性質があります。
つまりゴールドには代替性があるということです。ゴールドの持つこのような価値の問題点は、これが単純な利用価値よりも、人々の期待や一種の美人コンテスト的効果(みんなが価値があると思っているものが価値を持つという効果)に大きく依存しているという点です。
経済学者たちの懸念
このように人々の期待によって支えられている価値保存機能は、この価値に賛同する人が多いと予想されるほど価値の貯蔵手段として優れている、つまり、より価値が高いという性質があります。
ここから考えていくと、デジタルゴールドとなりうるものというのは、ネットワーク効果に根付いている必要があります。
ネットワーク効果が意味するのは、誰も価値を認めないという均衡が存在するということです。しかしそれと同時に、人々が価値を見出すという均衡も存在します。
ここで重要なのは、人々が価値を見出した場合、その均衡は崩れにくくなるということです。しかし、もしも価値の保存機能を持つものとして対等な2つの候補の中から一方を選ぶのであれば、問題はありません。2者のうち一方が秀でる分には特段問題はないのです。
ただ、我々が望んでいるのは生産性と効率性です。つまり、できる限り少ないコストで価値の貯蔵を行いたいのです。したがって、もしも全員の合意が得られるのであれば、なるべくコストのかからない安いもので価値を貯蔵するのが良いのではないでしょうか。
ここで問題となってくるのは、時間の経過とともに新たな価値の保存方法が生まれる可能性があるということです。たとえば、絶対にそうというわけではありませんが、プルーフ・オブ・ワークよりもプルーフ・オブ・ステークの方が低コストで価値を貯蔵できるかもしれません。
Bitcoinは暗号通貨の中でも先発者だったからこそ、他の暗号通貨に先駆けて価値貯蔵手段となることができたのではないのでしょうか。つまり、Bitcoinが今も最も効率的であると断言することはできないのではないでしょうか。
もしも今後ほかのものが登場してきたら、人々は果たしてそちらに乗り換えるのでしょうか。
Bitcoinに対する期待がロックインされているとはどういうことか
経済学的な言葉を使って説明してみましょう。Bitcoinが独占力を持っているのは、Bitcoinに対する期待がある程度ロックイン状態(現在利用している製品やサービス、技術などから別の同種のものへの乗り換えや入れ替えが困難な状態のこと)にあるからです。そうなってくると代替的な価値貯蔵手段を効率的に生み出すための競争が見込めないため、懸念となります。
経済学者たちの抱いている懸念というのは、市場における支配力に対する心配だと言い換えるべきでしょう。事態をより悪化させているのは、この件には明白な担当者がいないため、Bitcoinの持つ潜在的な市場権力に対する明白な規制方法が存在していないということです。
最後に、今説明してきた一連の議論というのは既に証明された説というよりは示唆に富んだ1つの考え方として受けとって欲しいということを付け加えておきます。
厳密に言えば、人々のBitcoinに対する期待は今はまだ明らかなロックイン状態にあるわけではありません。しかし将来的にはそうなってくる可能性が大いにあります。そうなってくると、たとえば20年後くらいに「これが果たして最良のシステムなのだろうか」という問いが生じてくると思います。
しかしそうなった時に我々はもっと優れたシステムに移行することはおろか、「これが最良のシステムなのか」という問いに答える術すらない、という状況に直面し苛立つことになるかもしれません。経済学者たちにとっては、このような状況になってしまうのが不安なのです。
まとめ
前回の記事と今回の記事を通して経済学者たちのBitcoinに対する評価を考察してきましたが、全体的な印象としては「ただ気に入らないだけ」という子どものような意見だったり「それは我々のやり方とは違う」という保守派的な意見が目立ちました。言ってしまえば、ただ単に「Bitcoinは嫌い」という口先だけの人が多いようです。
Bitcoinにはたしかに経済的観点からの懸念もあります。しかしこれらの懸念も、市場の失敗や、ましてや嫌悪感などという切り口からではなく、消費者の不合理性や市場権力という側面から議論されるべき懸念です。
もしも経済学者たちがBitcoinに関する懸念について適切に取り組もうと望むのであれば、十分に開発された標準的な枠組みを用意した上でその中で懸念を明確にしつつ議論を行う必要があります。
翻訳: Nen Nishihara
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