Bitcoin懐疑派の「Bitcoinには本質的な価値がないため通貨として機能できない」という主張に対し、擁護派はBitcoin特有のさまざまな価値を持ち出し反論してきました。しかし本記事では逆に「Bitcoinには商品としての本質的な価値はない」という主張が正しいと認めた上で、「本質的な価値がないからこそ素晴らしい」という議論を展開しています。
Bitcoinは本質的な価値がないからこそ通貨としての機能を存分に果たすことができます。Bitcoinのおかげで、本質的な価値があるにも関わらず価値貯蔵手段として使われ、商品としての機能を封じ込められていた資産クラスの価値を解放することができるのです。非常に興味深い論理展開となっていますので、ぜひご覧ください。
本記事は、コナー・ブラウン氏(Conner Brown)の「Bitcoin Has No Intrinsic Value — and That’s Great.」の内容を日本語へ翻訳し掲載したものです。原文の英語版はこちらをご覧ください。
この記事で述べられた意見はあくまで著者の見解を示したものであり、著者の所属する会社や雇用主の意見や信念を反映するものではありません。
本質的な価値がないのは素晴らしいこと?
本質的な価値とは何か。Bitcoinに対して懐疑的な人たちは皆この手の話をよく好みます。懐疑の人たちの典型的な主張は以下のようなものです。
Bitcoinは「商品」としての本質的な価値がないため、貨幣として使用することはできない。そもそもお金として有効であるためには、まずは「本質的な価値を得るために必要である固有の手段」として使用される必要があり、そうなってはじめて、その後時間の経過とともにお金として認められていく必要がある。たとえばゴールドは宝飾品や電子機器といった価値のあるものに使用することができるため、人々が価値を貯蔵するのにゴールドを蓄えるのは自然である。
このような懐疑派の主張に対してBitcoinerたちはこれまで、①本質的な価値とは主観的なものである、②Bitcoinは検閲に対抗できる決済手段としての本質的価値がある、という主に2点の理由で説得力のある議論を展開してきました。
しかしこの記事ではBitcoin懐疑派たちの言い分、つまり「Bitcoinには本質的な価値がない」という主張が正しいという論点で進めていきます。本質的な価値がないというのは一見よくないことに思えますが、実はそうではありません。これはBitcoinにとっても、世界にとってもむしろ素晴らしいことなのです。
「本質的な価値」を重視するBitcoin懐疑派の人たちの考え方
「本質的な価値 : Intrinsic value」というのは古くからある概念です。アリストテレスでさえ、お金は「本質的に有用なもので、たとえば鉄や銀のように生活の目的に容易に適用できるものであることが重要である」と述べています。
「本質的な価値」を重視する考え方が根強く残っているのも不思議ではありません。考えてみれば、商品の価値というのは何千年も前から人類にとってきわめて重要なものですし、それはどんな素人目からみても常に明らかな事実です。
ところが、「本質的な価値」というのはその起源は古くとも、貨幣の機能と直接結びついてはいるわけではありません。
貨幣として優れたものであるためには数多くの条件を満たす必要があります。たとえば持ち運びができること、容易に取引することができること、価値貯蔵のために希少性と耐久性があること、代替が可能であること、勘定の単位として使うため割り切れること、などです。
しかし「商品として有用な価値があること」というのは、優れた貨幣であるための条件には入ってきません。それにもかかわらず、なぜ多くの批評家たちは、貨幣には本質的な商品価値が必要であると主張するのでしょうか。これには主に2つの理由があるようです。
①歴史を根拠とした理由
多くの懐疑論者は、Bitcoinには本質的な価値がないと批判します。しかしそれはただ単に彼らが、通貨の「価値保存手段としての価値」がその通貨の「商品価値」の上昇によって倍増するような世界線に慣れてしまっているからです。つまり言い方を変えれば、彼らは未だに過去を生きているというわけです。
このように、多くの人は昔からの傾向が真であるという誤った認識を持って、現代に至るまでの技術的進歩について論じているのです。しかし、これまで信じられてきた「価値」の形がすべて物理的なものであったからといって、新たな価値保存手段となる媒体の価値も物理的なものである必要はないのです。
インターネットが普及しはじめた頃も、物理的な販売や購買をめぐってまさに今我々が論じている内容と同じような議論が巻き起こりました。
その議論の中であがってきたのは、「物理的な売買は過去からずっと続いているから、今後もインターネットにとって代わられることはない。」という何とも滑稽な主張でした。なんと90年代のニューズウィーク誌にこのような主張が寄稿されたのです。
現代においても、Bitcoin懐疑派の人たちが「お金は物理的にも有用な商品である必要がある」と主張していますが、この主張も10年も経てば、きっと滑稽で馬鹿げていると思われるようになるでしょう。
実際、「商品としての価値」は「貨幣の必要条件」からはかけ離れているということを歴史が証明しています。
たとえばニック・サボ氏は自身の代表作である『Shelling Out: The Origins of Money』の冒頭で、「社会は価値の保存と伝達のために、それ以外の目的においては “役に立たなかったであろう” ものを使ってきた」と述べています。
この「価値の保存と伝達以外の目的においては “役に立たなかったであろう” もの」の中にはたとえば、アフリカや北アメリカの一部で交易に使われていた、商品自体の価値はほとんどなかったガラス玉などがあります。
また、ヤップ族という民族が使っていたライ石という石製の通貨も、商品としての有用性や価値を持たない価値貯蔵用の媒体の一例です。
②権威を根拠とした理由
商品本来の価値に関する懸念について論じる人の多くは、メンガーやミーゼスやロスバードといったオーストリア経済学者から根拠を引いてきます。今名前が挙がったのはオーストリア派の学者たちで、貨幣の重要性とその社会的影響について強調した人たちです。貨幣とその商品としての価値というテーマは彼らの初期の著作から切り離せないものなのです。
たとえばメンガーの著名な作品『貨幣の起源について(On the Origins of Money)』では貨幣について、「ある商品が普遍的に受け入れられる交換手段としての媒体となったという事実である」(p.1)という描写から入っています。
その後ミーゼスは、メンガーの論をもとに自身の著作『貨幣および信用の理論(The Theory of Money and Credit)』の中で次のように述べました。
「我々は、商業的な商品としても機能する類の貨幣には商品貨幣(commodity money)という名前を、そして特別な法的資格を持つ貨幣には不換紙幣という名前を付けることができる」(p.61)
こういった昔のオーストリア経済学者たちの知能の足跡をたどり、多くの批評家たちが時代遅れの枠組みを使ってBitcoinを攻撃しています。
最初期(1BTCがまだなんとたったの77セントだった頃)のBitcoin懐疑論者の1人であるニールス・ヴァン・デル・リデン氏(Niels van der Liden)も、Bitcoinを拒絶する理由としてオーストリア経済学者の主張をもとに「Bitcoinでは取引以外のことはできない」から上手くいかない、「Bitcoinは商品として機能することができず、それゆえ貨幣としても機能しない」と結論づけました。
初期のオーストリア経済学者にとって通貨の概念は、(信用商品を除けば)商品貨幣か、あるいは不換紙幣かという2つの可能性しかなかったのでしょう。しかしそこから時代は変化したのです。
デジタルの時代においては、商品貨幣と不換紙幣の区別というのはもはや意味をなさなくなりました。Bitcoinがこの二項対立の枠組みには当てはまらないということなど考えればすぐにわかるはずです。Bitcoinには物理的な商品としての使い道はありません。かといって、法令によって定められている法的資格をもってして存在しているわけでもありません。
今の時代において我々は法的効力とは関係なしにデジタルマネーを保有して取引することができます。Bitcoinの通貨的特性は法的な資格ではなく、暗号化されたプログラムに組み込まれたルールとロジックによって保証されています。
Bitcoinはこのように純粋なデジタル世界の存在として、物理的な世界の制約から解放された貨幣として成り立っているのです。
翻訳: Nen Nishihara
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